以前一度このブログで紹介しましたが、その時は、公開許可をもらっていない
ということで、いったん公開をひっこめました。
ご本人から許可を戴いたので、あらためて、公開し、みなさんとシェアしたいと思います。
高校の同窓生MLで紹介されたものです。プライバシー保護のための伏せ字、
読みやすさのための改行などの措置はしましたが、他は手を入れていません。
(引用開始)
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T建設の▲▲です。
今、福島第一原発の南方約18kmの、広野火力の作業所事務所から
帰ってきました。
地震が発生したのは3月11日(金)。
この時は新宿の高層ビルの中におり、大変な揺れを感じ、恐ろしかった。
震源地が遠いため、横揺れが激しく、外を見ると近くの高層ビルが目に
見えて揺らいでいたのを覚えています。4年前まで東北の秋田で仕事をして、
同僚や作業員も東北出身者の多いため、安否確認が出来ずに苛立たしかった。
その後、3月15日に、福島第一原発の復旧の話が来ました。
具体的には、水素爆発した原子炉周辺のガラの撤去し車両の入れる状態にする、
電線ケーブル引き込みのための掘削、埋設、仮設動力のための軽油運搬、
放射線の水染のための水の運搬等です。
被災した東北支店ではなく、東京支店の私の部の仕事となり、
即座に社員の人選、物資の調達、業者や作業員の手配し、T社の社員7名と、
バックホウのオベ46名を現地に送りました。
1人1時間程度しか作業が行えないため、1時間交代となると
考えていました。
放射線量の制限値が250msVに変更されたり、白煙が上がって作業がストップ
したり、放水にため1晩中原発内で待たされたり、様々なことが有りました。
乗り込んでから約1週間の間、現場に配属した社員も、
東京で対応する災害復旧本部も、ほとんど不眠不休でした。
最初は詳しい状況も今ほどわからず、報道もされず、
電話の状態も悪い中での暗中模索の作業になりましたが、
関係者の頑張りと勇気によりやっと当初のミッションが峠を越したところです。
今になって作業員を増員させようとすると、「1日いくら」の話から
始めますが、最初に自発的に言った人たちは、明らかに「日本を救うため」
の気概と男気で自分の命を顧みずに突進していきました。
映画の「アルマゲドン」の世界でした。
すこしでも現地の環境を良くしたいと、昨日から現地に行き、様子を見て来ました。
広野の作業所に居ると、原発内で一晩仕事をして帰ってきた40代後半の私の部下
は、私の顔を見るなり泣き出して抱きついてきました。
放射性物質が体中に付いているので、すぐ周囲の仲間に引き離されてしまいました。
被爆量は幸い大したことは無かったですが、高い放射線の中に居る緊張感と不安感
は想像をはるかに超えるようです。
話を聞くと、ハイパーレスキューのアウトリガーが立ち往生して、最も線量の高い
3号機の前で時間を費やしたようです。結局車両は諦めたらしいですが、
「ハイパーレスキューを助けたら日本のヒーローになれたのに」
と悔しがっていました。
その後病院に行きました。
現地で働くことは辛いでしょうが、任命して、特別手当も無く働かせる側も、
涙が出るほど辛いです。
ここ数日、警察や消防隊のインタビューは有りますが、どうして我々建設業者の
話は出ないのでしょうか?
ポンプ車を設置するための場所の整地までして、
はるかに危険な作業をしているのに。一度誤報で、読売新聞がK社の名前を
書きましたが、実際居るのは、T社とH社(当初は)です。
ここ1月で様々な経験をしました。また改めて皆様に報告したいと思います。
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(引用終了)