昨日「ある事件」が起こり、おかげで、自分の「書く」ことに対する
あり方(being)についてしっかり考えるきっかけをもらった。
以前のぼくなら「ニャロメ!」とキレ、炎上してもおかしくない
理不尽・不条理な扱いである。
しかし、ぼくの哲学は
起こったことはすべていいことで、しかも、何かの意義がある
というものだ。
そのレールにそってよく考えたら、筋道が見えた。
キレなかった。
むしろ、相手に感謝さえ、している。
こうして、「書くこと」に対する自分のあり方をじっくり再認識する
良いきっかけを戴いたのだから。
ぼくは、文章は人の人生を変えてしまう力を持っていると思う。
子どもの頃からぼくは文章で救われてきた。
狭い尼崎の三畳一間の部屋が世界への窓になったのは文章のおかげだ。
だからこそ、書くことを生業(なりわい)にしているぼくは、文章に
責任を持たなければならない。
だから名前(本名)を出している。
文章は、ただ言葉を順列組み合せでつづればいいものではない。
読んでいて楽しいリズムとメロディがなければプロと言えない。
そして、視点も、売りだ。
ぼくは書くことで、たとえそれが小さくても世界にインパクトを与えたいと
考えている。お金のためだけに書いているんじゃない。
それがぼくの、書くという職業に対する、矜持なのだ。
だからこそ書いた文章に、「阪本啓一」という署名をしている。
「何を大きなことを言ってるんだい」と笑われるかもしれないが、
ぼくは本気で考えた。
「これで、いいのか? 後世、万が一ぼくの全集が出ることになったとする。
編集担当者が、『これ、本当に阪本の文章だろうか? どこかヘンだ』と
思って、惑うんじゃないか?」
「これをぼくの『作品』として、これから責任もちつづけられるのか?」
と。
答えは、ノーだった。
*念のため。
この「事件」は、日常おつきあいある連載コラムや本の出版に関するものではありません。