ブログ「時間の使い方」(→)や、ここ数回のセミナーで
ぼくが話しているマンションのとほほな営業方法の犠牲になった
営業マンに、今日も出会った。
違う場所で、3回も!
1回めは西天満交差点近所。
2回目も同じ。
3回目はついさっき、南森町交差点近所。
日曜ということもあり、西天満交差点から梅新東という「ホーム」
では人通りが少ないのだろう、買い物客が多いエリアへ「アウェイ」
にもかかわらず、進出したのだろうが、残念ながら、マーケティング効果がゼロな
ことに変わりはない。
さすがに3回目声をかけられた時、
「3回目やで!」と笑って言ってあげたが、彼、もうすでに笑う元気もなくなっていた。
これが危険なのである。
寒い中、ほとんどの通行人に無視され、場合によってはどやされたりもする。
すると、そこにドラマが生まれる。
中島みゆきが流れ始めるかもしれない。
懸命に努力する自分を美化するドラマ。
危険なのだ。
ぼくは、だから、マーケティング評価基準に「努力」を入れることに反対だ。
努力は、自己目的化する。
田中靖浩さんの名言「チリは積もってもただのチリ」
なのだ。
つまり、ムダな努力は、そこに美しいドラマが生まれるだけに危険極まりないのである。
くだんの営業マン、今日帰宅し、風呂に入って、温かいお湯の中で何を考えるか。
「やってられないよなあ。あんな寒い中。でも、オレ、よくがんばったよなあ」
でも実のところ、現場に立った彼は、こころの底の底の底で知っている。
「あんな営業スタイルは、ムダだ」
でも、それを言うと、会社にいられなくなる。
「それでもさあ。こんなことやってる会社にいて、オレ、大丈夫なんだろうか」
こころの底の底の底で、こうも思っている。
しかし、職業を失う不安から、「なかったこと」にする。
すがるのは、「美しいドラマの主役を演じた自分」。
「がんばったオレ」。
水の出ない井戸を掘ることを賞賛してはいけない。危険だ。
努力が危険な理由は、根っこに不安があるから。
不安を消そうとして、水が出ないことを知りながら、一所懸命に井戸を掘る。
努力は、危険なのである。