ピダハン(→)は、経験の直接性を何より重視する。

つまり、実際に見ていない出来事に関する定型の言葉と行為(たとえば、儀式)

は退けられる。直接経験の原則のもとに、何らかの価値を一定の記号に置き換える

のを嫌う。

「見てきたようなウソを言い」は最も忌み嫌われる。

だから、ピダハンにとって、ネットやFacebookは理解を超えているはずだ。

ネットやFacebookをしている自分、やっている誰か、というのは現実に存在するが、

中で述べられている内容には何の価値も見いだせないはずだ。

手触りのある直接経験ではないから。

要するに、時制が常に「いま」なのだ。

これに対して、ネットもFacebookも時制は「過去」。

ポストされた発言に「たった今」と表示されていても、それでも過去には違いない。

食べものは備蓄せず、食べきる。

そもそも、食べるということを重視していない。

備蓄もなく、狩りにも漁にも行かず、三日間、ひたすら楽しく踊り続けて

いたりする。

ピダハンは、環境が挑んでくるあらゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じきっている。

だから、何がこようと、楽しむことができる。

田中靖浩さんの名著『貯金ゼロでも幸せに生きる方法』に、こんな項目がある。

「予測不能な事態に弱い日本人男」(p.42)

事例として、田中さんは、最も予測不能な事態に放り込まれるのが

海外の新婚旅行を挙げている。

「子どもの頃から『成績がいい』『試験で何番だ』と評価され、会社に入って

からも評価の中で生きていると『ルールに従った振る舞い』が得意になります。

こうやれと言われればそのようにやれる。でも言葉が通じず、ルールや習慣が

『いつもと違う』海外では、瞬時に対応ができない」(P.42)

そんな、「真面目で優秀な日本人(特に男性)は、ピダハンから学ぶことが、

めっちゃくちゃあると思う。

もっと自分を信じていい。

「事前に対処」「いざというときのために準備」「投資」

という観念を捨てよう。

また、アリとキリギリスの寓話の底にあるのは、

「仕事はつらいもの」という前提だ。

違うと思う。仕事は遊びと同じ、楽しいものだ。

本を書いているとき、セミナーで話しているとき、コンサルティングしているとき、

そしてこのブログを書いているとき、ぼくは最高に楽しい。

だから、キリギリス・ライフを送る、といっても、何も怠惰に遊ぶことを

言っているのではない。キリギリスときいて、「いやな仕事から逃れる」を連想

した人は、自分自身の仕事観がそこに反映されているのだ。

楽しもう!

あ。見積もりしなきゃ