小さい頃、お金が正義だった。

両親が離婚し、母に引き取られて引越しした。

5歳から26歳まで過ごした実家は文化住宅。

文化とは名ばかりで、三畳と六畳二つとトイレあるだけ、風呂はない。

ここで高校と大学受験やり、旭化成に入社して、営業マンやってた。

お金さえあれば、風呂つきの家に住める!

愛読書は矢沢永吉『成りあがり』(いまでもKindle版でスマホに

入ってる)。

高校時代、「エアコンのタイマーがおかしくてさ。朝、寝室に暖房入ってなくて

風邪ひいちゃったよ」という同級生が宇宙人に見えた。暖房のある家!

うちにあるのは練炭火鉢だけ、一酸化炭素のおかげでよく頭痛がした。

働き始め、お金が入ってくるようになり、欲しいものを買えるようになった。

欲しいもの、といってもせいぜい服とか本だ。

広島へ転勤になり、初めて家に風呂のある生活が始まった。

昭和59年、1984年のことだ。天国だった。

その頃はまだわからなかった。

お金そのものに価値があるのではなく、お金を使うことで入手できる

満足感が欲しいのだということに。

つまり、人がお金が欲しい、というとき、お金で手にできる「かもしれない」満足を

求めているのだ、ということに。

ややもすると、この、「欠乏感」は、すり替わる。

たとえば;

親からの愛情を十分受けられなかった幼少時代の寂しさがお金にすり替わる。

自分の満たされない何かがお金にすり替わる。

お金について考えるとき、自分がどんな満足を求めているのか、そしてそれはお金で

手に入るものなのか、を考えることが大事だ。

(つづく かもしれない)