The problem is rather that the important and relevant
outside events are often qualitative and not capable
of quantification. They are not yet “facts”.
For a fact, after all, is an event which somebody has
defined, has classified and, above all, has endowed with
relevance. To be able to quantify one has to have a concept first.
One first has to abstract from the infinite welter of phenomena
a specific aspect which one then can finally count.
The Effective Executive, p.16
問題は、組織の外部で発生する重要な意味を持つ出来事(事象)が
往々にして定性的で定量化できないということだ。
つまり、この段階でまだ出来事は事実とは言えないのである。
事実とは、つまるところ、誰かが定義し、分類し、何をもって事実とするか
というものさしをあてがって初めて事実となる。
だから、事実として定量化しようとするなら、まずコンセプトが先に
なければならない。
私たちを取り巻く無数の出来事の海からコンセプトに見合う特定の事象を取り出し、
名前を与え、そこではじめてカウントできる事実となるのだ。
翻訳:阪本
昨日(→クリック!)にひきつづき、「事実とは何か」という哲学的問題を考えていきます。
ドラッカーは上記の文章のちょっと前に、「コンピュータが扱えるのは定量的
データだけだ」「定性的なものはコンピュータには扱えない」という議論を
書いていたので、「定性的(qualitative)」と「定量化(quantification)」という
対語を使っています。
ちょっと気になるかもしれませんが、この際、この対語はちょっと脇に置いて、
「コンセプトが先になければならない」に注目して下さい。
これは、昨日のこのコラムで「意思決定のためには自分の意見から始めよ」
と言っています。同じ意図です。
非常に大胆に言ってしまえば、「コンセプトによって、何を事実とするかは
変わっていく」ということなのです。
ほら、物理にとって味は事実ではないが、料理にとって味は極めて重要な
事実だ、という論がありましたよね?
「物理」と「料理」という異なるコンセプトの前には、同じ事象でも
事実になったり、ならなかったりするのです。
自分が何者であるか、世界がどんな姿をしているのか…すべての重要な問いかけに関わることだと思いました。
幸福と不幸、健康と不健康、男と女、醜いアヒルと白鳥、…。
ニュートラルな世界にどんな物差しが当てられるかで、見える事実は変わると感じました。
環境問題も、ニュートラルな事象そのものではなく、人間が問題意識を持って定義を与えた結果だと思います。なので、人間の生活を無視した「環境エネルギー」はあり得ないと思います。