私たちは基本的に無関心の時代に生きていながら、これほど大量の、
よその人々についての情報に囲まれている。その気になれば、
それらの情報を簡単に取り込むことができる。それでいてなお、
私たちは人々について本当にはほとんど何も知らない
(木元沙羅 p.138)
まさにFacebookをやっていての実感だ。
現代人にとってSNSなどソーシャルメディアはいとも簡単に人と
「つながる」ことができる素敵なツールだ。
しかしながら、「つながる」ことは本当にその人を「知る」
ことになっているのだろうか?
Facebookの「ともだち」は、本当の「ともだち」なはずはない。
あくまでそれも、仮想現実だ。
そう思うと、引用した上記の言葉は、とても示唆的だ。
主人公多崎つくるは駅をつくることを仕事にしている。
駅が(当然のことだが)何度も出てくる。
ラスト、ストーリーを中断させるかのように新宿駅の描写がえんえんと続く。
「先」が気になる読者はここで足踏みさせられる気になる。
しかしその足踏み感、欲求不満感、わからないもどかしさこそが、この作品の
テーマなのだ。
そして新宿駅を通過していく一日350万人の人たち。
彼らは圧倒的な物量をもっている。視覚にも、触覚にも(靴を奪われたりして(笑))、
嗅覚にも、聴覚にも、「たしかにそこにある物理」なのだが、しかし、
匿名で、誰一人として、「わたし」にとってたしかな手応えある「中身」のわかる人はいない。
簡単に一つの単語や表現(たとえば『孤独』)に担わせることはせず、作者は重層的に時空を
超えて交わる(あるいは予想に反して交わらない)エピソードを描写する。
タテに一本、低い旋律でリストのピアノ曲『巡礼の年』だけが流れている。
村上春樹作品はリアルタイムでデビュー以来読んでいた。『風』『ピンボール』『羊』
あたりまで。そう、鼠が登場する初期作品群だ。80年代、『ノルウェイの森』くらいまでは
常にフォローしていた。
しかしそれ以降、しばらく、この作品まで遠ざかっていた。『1Q84』は読み始めて、
中断したままだ。
新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、ぼくにとって、大切な一冊
になった。おそらくこれから、何度もなんども読み返すと思う。
ありがとう、村上春樹。素晴らしいギフトを。