映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は横浜のソーテツ何とかという、
昭和の香りがぷんぷんする映画館で観た。
空いていて、昭和な空気がとても映画に合った記憶がある。
冒頭、一平君たちが飛行機を飛ばす。
薬師丸ひろ子がラジオをいじっているファーストシーンから
飛行機が空へ飛び立ち、やがて下半身だけの東京タワーが映るまでをワンカットで
撮影している。
これはプロデューサー阿部秀司さんのこだわりだと、先日ここで紹介した本
『じゃ、やってみれば』で知った。
ぼくはこの冒頭シーンを観た時、思わず涙してしまった。
その時は、昭和へのノスタルジーが涙を誘ったんだと思っていた。
でもどうも違ったみたいだ。
昨日久しぶりに岡本太郎『青春ピカソ』を読んだ。
若き岡本太郎が、ルーヴル美術館でセザンヌとピカソの前で泣いた場面がある。
私は鑑賞者として感激したのではない。創(つく)る者として、揺り動かして来る強い
時代的共感に打たれたのであった。言い換えれば、作品の完成された美に打たれた
のではない。創作者の動的な世界観に、私の意志が強烈にゆすぶられたのだ。これらが
あたかも自分自身の魂の所産のようにさえ感じられたからだ。(新潮文庫版 p.14)
おそらくぼくが涙したのも、この感じと同じだったんだと思い至った。
創作する者としての、響き合う何かがあったんだ。
「やられた!」という感じ。
うん、いいね。
この感じを求めて、映画や音楽や本に接しているような、そんな気がする。