企業は機械ではなく、生物=生命体である。
これは決してアナロジーではなく、
実際にDNAがあり、遺伝子(ブランド・ジーン)を保有する。
生物学的な表現をするなら、自己複製能力を持つし、
構成要素(ヒト、モノ、カネ、情報)の分子が動的に平衡を
保っている「ゆらぎ」が生み出すものだ。
常に新陳代謝し、合成、更新、分解を重ねている。
芯になるものは、実は、体内細胞としては、何もない。
たとえば、「株式会社JOYWOW」は物体としてどこかに存在する
わけではない。もちろん横浜にオフィスがあるが、それはJOYWOWとは
言えない。存在する・できるのは「JOYWOWを知っている人の脳内」のみである。
そしてこれはぼくのブランド論と一致する。
ブランドが存在するのは商品(モノ・サービス)の中ではなく、
そのブランドを認識し得る人の脳内のみであり、脳内にしか存在し得ない。
極めて主観的・動的な存在であって、人が100人いたら100のブランドが
存在する。同じブランドXでも、Aさんの脳内で結ぶブランドX像と
Bさんのそれとは違う姿をしている。
野球ファンを例に取ればわかりやすい。
「広島東洋カープ」ブランドがある。ファンの熱さを選挙のように得票で測定するとする。
熱烈なファン脳内には票が積み上がっている。たいしてファンではない人の脳内票は少ない。
そしてその票数は時間と共に増減する。
熱烈なブランドファンの脳内票数は多いので、仮に何かブランドが失態を起こしても
多少減ったところでまだ残っている。ところがもともと票数の少ない人の場合は、
一気に票数ゼロ、となり得るのである。
話を戻す。
ブランドとは、アイデアである。
商売とは、ブランド=アイデアを発信し、共感した顧客にアイデアを買ってもらう
ことである。
よく売れるブランドとは感染力の強いウィルスのようなもの。
ウィルスは、生物と無生物のあいだ((c)福岡伸一)にいる。
自己複製能力を持つ点では生物だが、自身が動的平衡をもったゆらぎではなく、あくまで
メカニカルな粒子・物体であるという点では無生物である。
アイデアについて考えれば考えるほど、不思議だ。
たとえばぼくの脳内で着想したアイデア。これは生物だろうか。
脳内神経(ニューロン)と神経の間を渡って情報伝達物質ペプチドが織りなす
特定のアミノ酸配列がアイデアと言うこともできる。
冬の夜空を彩るカシオペア座のように、ある一定の回路を形成するアイデア。
しかし、これも静的な解説であり、刻一刻と変容するアイデアの動的な
描写とは言い難い。
アイデアがアイデアを生むという意味では自己複製能力を持つ。
しかし、ぼくが発信せず、死んでしまったとしたらアイデアは単体では生き残れない。
本やブログに書き残した、あるいは、塾生に話して伝わったらたとえぼくが
死んでもアイデアは残る。
つまり、何らかの媒体(本、ブログ、塾生)の助けを得たら、生き続けられる。
まるでウィルスである。
というブランドが生まれ、育ち、伝播していくさまをリアルタイムで
知っているぼくとしては、「ネコリパブリック」アイデアがどこかの段階でウィルス化したと
いう実感がある。これをブランド・ウィルスと呼ぶ。
ブランドというアイデアがウィルス化したのだ。
企業のもつ風土。これもブランド・ウィルスのもたらすものである。
長いあいだの顧客とのやりとりや、取引先との交流を通じて変化していく。
不可逆的な一方向へ流れる時間と共に変化する点でも生物である。
上に書いた、「やりとり」「交流」でウィルスに感染した、とも考えうる。
業界で同じにおいがする、というのがそれである。
ひと目で「あ。マスコミ系の人だな」「製造業タイプだな」「サラリーマンだな」
「自営業者だな」「エステにお勤めだな」とわかる「職業別オーラ」を身にまとう
原因は、ブランド・ウィルスである。
ブランド・ジーンの次はウィルス。
いずれも人畜有害な、お気に入りのアイデアである。
乞うご期待(何を?(笑))
経営は諸行無常。
それに関してゲーテの言葉を引用して締めくくろう。
「なぜ、私は移ろいやすいのですか。おお、ジュピターよ」
と、美がたずねた。
「移ろいやすいものだけを美しくしたのだ」と、神は答えた。
経営も諸行無常。だから美しいのだ。