100分を1人でぶっつづけ。
ステージが狭く感じる圧倒感はすごい。
森ノ宮ピロティホール、初めて行ったが、ハコの大きさとして
ちょうどいいんだろうなと思った。
蔵之介ファンで満席、立ち見が出ていた。
大半は女性である。
精神病棟に入院した(させられた)男がマクベスをすべてモノローグで
語り、魔女、夫人、ダンカンなど20人を1人で演じ分ける。
もともとはブロードウェイでヒットした作品の日本語版なので、
最初の作品設定がそうだから論じても仕方ないのだけど、
テーマを
現実と幻想のあいまいさ
すべては現実であり、すべては幻想である
とするなら、
何もマクベスでなくてもよいのではないかと思った。
さらに、何も精神病棟を舞台にして、男を精神病者と
しなくても、普通の精神状態として描いたほうが
もっと迫力が出たのではないか。
もともと1人の人間の中には複数が存在する。
昨日、終演後、地下鉄ホームでスマホゲームに興じる女子高生を
見ていて、気づいた。
彼女の身体は地下鉄ホームに存在しているが、
精神はスマホの中にいる。バーチャルワールドの中に生きている。
つまり、地下鉄ホームでは生きていない。
バーチャルワールドで生きている。
こういうことは、現在常にある。
Googleグラスが実現しようとしたことも実はそれであり、
プラットフォームを提供することで、リアルな一瞬一瞬を
愛おしく生きる、つまり、マインドフルネス(尾原和啓さんの表現を借りた)
のためのツールとしてのITなわけだ。
だんだんぼくの言ってることがわからなくなってきたかもしれないけど、
しばらくおつきあいください。
話をマクベスに戻そう。
マクベスのような、観客の大半が「タイトルだけ知っているけど
実は読んだことがない」古典をベースにするより、
「みんなが知っていて、感情移入できる作品」にしたほうが、より
狂気と現実の崩れが伝わったのではないか。
たとえば
1人ドラゴンボール。
悟空、悟飯、悟天、ベジータ、ピッコロ、ブルマ、亀仙人、フリーザ、
トランクス、クリリン、ヤムチャ、人造人間18号、チチ、ミスターサタン、
魔人ブウ、カリン様、神龍(シェンロン)、バビティ、ギニュー特戦隊、
セル
を1人でやるのである。
たとえば
1人ドラえもん。
ドラえもん、のび太、しずかちゃん、ジャイアン、スネ夫、お父さん、お母さん、
しずかちゃんのママ、しずかちゃんのパパ、大人になったしずかちゃん、大人になった
のび太、大人になったジャイアン、大人になったスネ夫、先生、ドラミちゃん
などを1人でやるのである。
たとえば
1人サザエさん。
サザエさん、お母さんフネ、お父さん波平、カツオ、ワカメちゃん、マスオさん、
学校の先生、三河屋サブちゃん、中島くん、中島くんのおじいちゃん、
花沢さん、花沢さんのお父さん(花沢不動産社長)、大人になったカツオ、
大人になった花沢さん、カオリさん、大人になったカオリさん、早川くん、
いささか先生、いささか先生の奥さん、甚六さん、浮江さん・・・
を1人でやるのである。
このほうが、現実崩壊と狂気がより、伝わるのではないかな。
いや。
現実は崩壊しない。
崩壊し、幻想に見えたとて、すべてが現実なのだ。
マクベス冒頭の魔女たちのセリフ
Fair is foul, and foul is fair.
熱戦を繰り広げている高校野球的に言うと
フェアはファール、ファールはフェア。