オノ・ヨーコさんは子どもを育てるために、できる仕事は何でも

やったという。

彼女の出自(→)を考えれば、あり得ない境遇に置かれて

いたのだ。

エンパイア・ステート・ビルに入居している会社のタイピストの

仕事もやっていたことがあるそうだ。

8時間の勤務時間のうち、ランチタイムは彼女にとってクリエーション

の時間。

「人間は、誇りを持たなかったら駄目になる、惨めになる。

でも、8時間の勤務時間のうちの昼30分間だけでも、エンパイア・ステート・ビル

から、たった一人の秘書が発想するクリエーションは誇りでした」(→)

26歳まで住んだ実家、尼崎の家は、3畳6畳の狭いせまい空間だった。

でも、そこから世界へイマジネーションをふくらませ、手塚治虫にあこがれ、

将来は漫画家になる! と夢を描いていたぼくを支えたのが、読書だった。

写真は、その頃好きだった一冊。読書好きな自分をヘッセが肯定してくれ

ているようで、何度も繰り返し、読んだ。

my pride

my pride

ぼくの誇りだった。